“DIRECTORS”PART.3
「黒澤 明監督
幻のノンストップ・サスペンスアクション − 暴走機関車−」
"Runaway Train" by Akira Kurosawa
“幻の”と書いたが、「暴走機関車」という映画は存在する。
B級アクション映画を乱発していた、ヨーラム・グローバスとメナヘム・ゴーランのプロデューサー・コンビによるキャノン・フィルムが、1985年に製作した「暴走機関車(Runaway Train)」というのがそれで、旧ソ連出身のアンドレイ・コンチャロフスキーが監督し、ジョン・ヴォイト、エリック・ロバーツ、レベッカ・デモーネイ等が出演した。コンチャロフスキー監督というと、「貴族の巣(Dvoryanskoye Gnyezdo)」(1969)「ワーニャ伯父さん(Dyadya Vanya)」(1970)「マリアの恋人(Maria's Lover)」(1984)「或る人々(Shy People)」(1987)「映写技師は見ていた(The Inner Circle)」(1992)といった真面目な作品が多いが、ハリウッド進出後にはシルヴェスター・スタローンとカート・ラッセルが共演した「デッドフォール(Tango & Cash)」(1989)という極めて安易で軽薄な刑事アクション映画を撮っていたりして、作風がよくわからない人である。
このコンチャロフスキー版「暴走機関車」はどういう話かというと、冒頭にアラスカの刑務所で囚人たちの暴動があって、ジョン・ヴォイトとエリック・ロバーツ扮する2人の囚人が刑務所から脱獄する。雪の中を逃亡して駅にたどりついた2人は、ちょうど出発しようとしていた列車にもぐりこむが、発車したとたんに機関士が心臓発作で転落死してしまい、列車は暴走しはじめる。一方、囚人に逃げられて面目丸つぶれになった刑務所長は、復讐の鬼と化し、ヘリコプターでヴォイトたちの乗った列車を追跡する。刑務所長は空から列車に乗り移り、ヴォイトと対決するが、ヴォイトは弟分のロバーツと偶々列車に乗っていた女性乗務員(デモーネイ)の命が助かるように車輌を切り離し、自分は刑務所長を道連れにして機関車ごと行き止まりの線路に突っ込んで壮絶な死を遂げる。という訳で、暴走する列車をいかに止めるか、というサスペンスよりも、凶悪な犯罪者と鬼刑務所長との男同士の意地の張り合いを描いた骨太なドラマが主体となっていて、それなりに迫力のある映画だった。
この映画の脚本はエドワード・バンカーとジョージ・ミリセヴィックの共作だが、“黒澤 明、菊島隆三、小国英雄の脚本に基づく”ときちんとクレジットに出る。
この映画より約20年前の1966年に、黒澤 明監督は、アメリカのエンバシー・ピクチャーで「ザ・ランナウエイ・トレイン」を撮ると発表した。これは、カラー/70ミリの大作でアメリカ側のプロデューサーはジョセフ・E・レヴィンに決まっていた。この映画は、1963年にアメリカで実際にあった事件を基にしており、ニューヨーク州のシラキュースからロチェスターまでを、合計100万ポンドの巨大な4台連結のディーゼル機関車が、操縦できない3人の男を乗せて時速146キロの猛スピード暴走するという話で、撮影は実際に事件のあったニューヨーク・セントラル鉄道を使ってその年の秋頃からスタートすることになっていた。監督の黒澤 明とプロデューサーの青柳哲郎、助監督の松江陽一が日本から行く他は、テクニカル・スタッフも出演者も全部アメリカ人のアメリカ映画で、シナリオライターとしてシドニー・キャロルが参加して脚本執筆も進められており、9月半ばから黒澤がアメリカに渡り、11月から撮影を始めることになっていた。
アメリカ側プロデューサーのジョセフ・E・レヴィンといば、「ソドムとゴモラ(Sodom and Gomorrah)」(1962)「軽蔑(Le Mepris)(1963)「ズール戦争(Zulu)」(1964)「ネバダ・スミス(Nevada Smith)」(1966)「大列車強盗団(Robbery)」(1967)「冬のライオン(The Lion in Winter)」(1968)「ソルジャー・ブルー(Soldier Blue)」(1970)「イルカの日(The Day of the Dolphin)」(1973)「遠すぎた橋(A Bridge Too Far)」(1977)「マジック(Magic)」(1978)といった多数の作品の製作を手がけているベテランのプロデューサーであり、1954年製作の東宝の「ゴジラ」の再編集米国公開版(Godzilla, King of the Monsters/テリー・モース監督、レイモンド・バー主演)のプロデュースも担当している人である。
一方、アメリカ側シナリオライターのシドニー・キャロルといえば、ポール・ニューマン主演の「ハスラー(The Hustler)」(1961)や、ヘンリー・フォンダ主演、フィルダー・クック監督の「テキサスの5人の仲間(A Big Hand for the Little Lady)」(1966)等の優れた作品を手がけている名脚本家で、特に「テキサスの5人の仲間」はコン・ゲームを題材にした見事な脚本で、私の大好きな作品である。
黒澤 明監督によるハリウッド製アクション映画で、アメリカ側にもベテランのプロデューサーと名脚本家が参加しており、ファンとしては大いに期待させられる企画であるが、残念ながら実現はしなかった。実はシナリオの基本的構想について、レヴィン/キャロル側と黒澤監督との間に食い違いがあり、その調整に手間取っているうちに時間的に撮影開始は無理となったので、黒澤監督の方から取りあえず1年間の撮影開始延期を提案したのだった。最大の問題はレヴィン側から「暴走機関車」にあるひとつのメッセージを盛り込んでほしいという注文があったことだった。
この点について、黒澤監督は当時のインタビューで以下のように語っている。
「ところが、『暴走機関車』は、徹底的なアクション作品でしょう。僕としては、そういうテーマみたいなものは、機関車の暴走というアクションに徹した作品構想で描写を一貫させても、作品を見終わったら、自然に画面からにじみ出てくるものだ、という考えなんです。映画というものは、作品の中でメッセージを説明口調で言うべきものではないと思う。このへんが、もっとも大きな食い違いでした。アメリカ人の眼から見た登場人物のキャラクターを、こういう風に直したい、というシドニー・キャロル氏の意見は、立派なものでした。しかし、構想の根本でひっかかりが出てきたので、シナリオ作りが、えんえんと延びてしまった。
それと、もっと具体的なドラマ作りの問題としても、困ったことが出てきました。たとえば僕は、映画とは、表現するドラマの内容を、時間的に正確に組合わせねばならないものだ、と思っています。実際に機関車が3分間で走る時間内に起こる出来事は、その3分間のうちに描くべきなので、そこに20分間分のエピソードが出てきたりすることはあり得ない。3分間の出来事は、3分間以内で総てを描いてこそ、スリルやサスペンスも出てくる、と思う。そうしないと、僕の映画的表現というものは、成り立たない。そのへんの考え方にも、違いがありました。
機関車が暴走をはじめる、という発端を描くのでも、僕は、何が原因かはっきりわからなくても、とにかく機関車が突然、暴走をはじめてしまった。その突発的な出来事に対して、関係者たちは、とにかく何かをしなければならない。いったい、どうしたらいいのか、というスリルでスタートさせるべきだと考えるわけです。
これに対して、まず一つの環境が設定されて、その中にこういう人間がいて、その環境と人間のからまり合いの中から、機関車の暴走という事故が起こる、という描き方をすべきだ、という考え方がある。このへんも、映画を作る上では、大きな考え方の違いです」
(「キネマ旬報」1967年1月下旬号インタビュー)
最初の方の「映画というものは、作品の中でメッセージを説明口調で言うべきものではなく、アクションに徹した描写で一貫させれば、自然にテーマが画面からにじみ出てくるものだ」という部分は、黒澤監督の活劇に対する考え方を明確に表しているし、私自身も全く同じ考えである。実際に彼が撮った作品でも、「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」といったアクションに徹した作品の方が、テーマ性を意図的に前面に押し出した作品よりも完成度が高く、映画として成功していると思う。
また、「機関車が暴走をはじめるという発端を描くのに、何が原因かはっきりわからなくても、とにかく機関車が突然暴走をはじめてしまって、いったいどうしたらいいのか、というスリルでスタートさせるべきだ」という部分は、アルフレッド・ヒッチコックの言う有名な“マクガフィン”の考え方に近いと思う。つまり、事件の発端となる原因(WHY)や、物語の鍵となるモノ(WHAT)よりも、いかにして(HOW)その事件を解決するか、あるいはそのモノを探し出すか、といった部分がストーリーテリングにおいては重要なのであって、逆に言えば“WHY”や“WHAT”はどうでもいいのである。スティーヴン・スピルバーグ監督の「レイダース 失われたアーク《聖櫃》」で、観客にスリルとサスペンスを感じさせるのは、“失われたアーク(Lost Ark)”が何であるか、ということではなく、インディアナ・ジョーンズがいかにしてアークをナチスから奪還するか、という部分の虚々実々の駆け引きと追撃戦であって、別に対象がアークでなくても構わないのである。最も極端な例はアルフレッド・ヒッチコック監督の「北北西に進路を取れ」で、この映画では、ケイリー・グラント扮する主人公がジョージ・キャプランなる人物に間違われて事件に巻き込まれるが、そのキャプランが属している組織の実態が最後まで不明であるばかりか、キャプラン自身がそもそも架空の人物であり、要するにそんなことはこのストーリーの中ではどうでもいいことなのである。
岩波書店から刊行された「全集 黒澤 明(全6巻)」という黒澤監督による脚本を網羅した全集本の第5巻に、黒澤 明、菊島隆三、小国英雄 脚本による「暴走機関車」のシナリオが収録されている(登場人物は全てアメリカ人だが日本語で書かれており、シドニー・キャロルによる修正が入る前のオリジナルである)。
話はニューヨーク・セントラル鉄道シラキュース操車場で、刑務所から逃げ出してきた囚人2人がこっそりと機関車に乗り込むところから始まる。彼らの乗った4両連結の機関車は機関士不在のまま突然暴走を始めるが、最後尾に乗っている囚人2人は機関車が暴走していることに気付かない。セントラル鉄道のロチェスター・コントロールタワーでは、突然暴走をはじめた列車に対処する為、同じトラックの前方を走っている別の列車を待避線に移して衝突を回避する一方で、何とかして暴走列車を止めようと、後ろから別の機関車で追跡して暴走車と連結しブレーキをかけるとか、あの手この手を考えるが、列車の行く手に制限速度以上で渡るとバラバラに崩壊する恐れのある古い浮橋があったり、猛スピードで突っ込むと脱線する恐れのあるS字カーブがあったりと、一難去ってまた一難というように次々と危機が迫る。一方、自分たちの乗っている機関車が暴走していると気付いた囚人たちも、最後尾の機関車から先頭の機関車に乗り移っていき、なんとか暴走車を止めようと試みる・・。というように、映画は機関車が暴走しはじめてから結末までをほぼリアルタイムで息つく暇もなく一気に描いており、その間はまさにアクションとサスペンスの連続である。このオリジナルの脚本のまま、黒澤 明の演出で映画化されていれば、ノンストップ・アクション映画の大傑作となったに違いなく、これが実現しなかったことは残念でならない。
結局この脚本は、冒頭に書いた通りゴーラン=グローバスのB級プロデューサー・コンビに買い取られ、黒澤監督が意図したものとは全く異なる男同士の葛藤のドラマに書き換えられて映画化された。どうせ権利を買い取ってアメリカで映画化するなら、オリジナル脚本のまま、ジェームズ・キャメロンあたりに撮らせていれば、より原案に近い映画になったかもしれない。という訳で、この黒澤版「暴走機関車」は“幻の”映画となってしまった。最も残念なのは、巨匠亡き後、このオリジナル脚本を堂々とした大作として映画化できるような実力を持った後継者が日本映画界に存在しないことだろう。
(2001年10月)
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